宿に朝食ついてること知らなくて昨日パン買っちゃってちょっと悔しい。おはようございます。
さて朝ごはん食べて準備したら今日はアウシュビッツへ行ってきます。
アウシュビッツへのアクセス
クラクフからバスを利用しました。
というクラクフ中央駅のすぐ隣にある大きなバス停から発着しています。1時間に1本くらい。
ここで確認できます↓
Krakow – Oswiecim – lajkonikbus_pl
気をつけて欲しいのが、アウシュビッツという地名ではなく、オスウェンチム(Oświęcim)という地名行きなので間違えないようにしてください!アウシュビッツというのはこれらポーランド語のドイツ語読みだそうです。
チケットオフィスで尋ねたらバス内でチケット買えるとのこと。G4っていうバス停にたしかにもうバスいた。片道14ヅロチでした。
バスは最終的に満席になり立ってる人までいたのでちょっと早めにバスに乗ることをオススメします。
こちらがそのバス。Lajkonik BUS(ライコニックバス)です。
本当にこっちのバスは、わかりやすくていいですね…
あと市内の他の場所からも乗れるみたいですが、始発駅のこのバスターミナルから乗ったほうがいいです。座りたいなら。
1時間半ほどで到着。
アウシュビッツ日本人ガイド中谷さんのツアー
普段ツアーとかは使わない人なんですけど(めんどくさいしお金かかるから)、知り合いにアウシュビッツ行ったら絶対中谷さんのツアーで行ったほうがいいとのことを言われていたので、せっかくなのでツアー申し込んでいました。
実は10月に一回ポーランド来ようとしていた時があったんですけど、その時はツアーがいっぱいだったのでやめたんですよね…
今回は予定組むときに一番最初に中谷さんに連絡をとって、空いていたのでそれに合わせてポーランドを回ったんですよ!実は。
料金は入館料まで含めて50ヅロチと、思ったよりも全然安い。
そしてその価値は間違いなくあると思いました。
アウシュビッツ強制収容所の日本語ガイドとして、中谷さんのツアーを予約するのであれば直接メールするか、HPから予約できるみたいです。僕は直接メールしました。
直接メールでは、すぐ、親切に対応しくれました。ただ、やはりどうしても人気なのか埋まっている日も結構多いようです。早めに予約したほうが良さそうです。
個人的には外国人として初めてアウシュビッツでガイドとして働き始めたという中谷さん自身にかなり興味がありました。だって、アジア人が、ヨーロッパの中である種タブーになっているような負の歴史を伝導する仕事をしているんですよ?どんな人なのか、とっても気になりました。
詳しくはこちらの記事を参考にして見てください
参考:アウシュヴィッツ博物館初の外国人ガイド・中谷剛さん「タブーに立ち向かうのは戦争を経験していない世代」
印象的な言葉を一つ中から引用させていただきます。
僕たち戦争を経験していない世代には、アウシュヴィッツの歴史から距離があるからこそ、「じゃあこの歴史をどう理解して、どう将来につなげていこうか」というところまで議論することができると思います。直接被害を受けて痛みを受けた人は、あまりにも傷が深すぎてそこまで話を発展できないこともある。
だからこそ、今の問題にどうアウシュヴィッツの歴史をつなげて議論していくかが、戦争を経験していない僕たちの役割なんだと思います。
これがきっと僕の先ほどの疑問の答えでもあるような気がします。
彼は日本人であり、戦争も経験していない世代であるからこそ、この凄惨な歴史的事実を距離を保った状態で捉え、これから先、将来の世界のあり方に役立てるべきだと考えているのでしょう。
書籍も出ていますので興味のある方は是非どうぞ
![]() | ホロコーストを次世代に伝える―アウシュヴィッツ・ミュージアムのガイドとして (岩波ブックレット) 中谷 剛 岩波書店 2007-10-05 |
![]() | 新訂増補版 アウシュヴィッツ博物館案内 中谷 剛 凱風社 2012-08-31 |
ツアー開始
さて、少し脱線しましたが、ツアーに戻ります。
開始時間の15分前くらいからみんな集合しました。この日のツアー参加者は31人。人気なだけあって、やっぱり結構多いなあ。
入り口付近で混雑し合っているところに日本人の集団がいたら多分それです。
その後人数の確認をして、全員で入場口へ並んで荷物検査をしてから(A4サイズ以上の荷物は有料で預けなければなりません。でも僕のカメラバックそれなりに大きかったけど行けたので多分リュックとかでなければ行けます)、中でオーディオとイヤホンを受け取ってからガイド開始です。
この記事ではガイドの内容や教えていただいたことを中心に書いていきたいと思いましす。思うことをかくと色々ぐちゃぐちゃしてしますので…それは次回書こうと思います。
これは自分がここで教わったことの備忘録も兼ねて、展示をみて話を聞きながら取っていたメモから起こしたものなので、不正確な部分も多々あるとは思いますが、悪しからず。
さて、ガイド開始です。
ちなみに僕はアウシュビッツに関してそこまで多くの予備知識を持っていませんでした。日本人の常識レベルはあったと思うけど…
この建物が身体検査やオーディオの配付場所として使われていました。
敷地内に入るともうすぐにたくさんの建物があり、それらが当時のいわゆる「強制収容所」として使われていたものたちです。
この第二次世界大戦中のユダヤ人の大量虐殺のことをホロコーストと言いますよね?
ホロコーストというのはもともと「生贄」という宗教的な意味の言葉だったのですが、かつてアメリカのテレビ番組がこの言葉を使ったのをきっかけにホロコーストと呼ばれるようになったそうです。なので当のユダヤ人の人たちはホロコーストという言葉を使うことを嫌うのだとか。

こちらの白い建物などは実は戦前からポーランドが使っていたものなのだとか。戦争中にドイツ軍が作らせたものばかりでもなかったんですね。
アウシュビッツ強制収容所には第一収容所と、いわゆるビルケナウと呼ばれる第二収容所が存在します。(車で5分くらいの距離)それらを総称して一般にはアウシュビッツ強制収容所と呼ばれます。
もともとは第一収容所だけだったのが、収容人数が増えすぎて、スペースが足りなくなり第二収容所を作らせたそうです。
何気なく建物の周りに生えていた木がありましたが、これもユダヤ人たちに植えさせたものだそうで、それから70年経ってこんなに立派なもの担っているとのこと。

ここアウシュビッツにはかつてヨーロッパ中から900-1000万人ものユダヤ人が集められてきてたと言います。当時のドイツはヨーロッパの中のほとんどの地域を支配していたのです。
ちなみにユダヤ人のイメージが強い強制収容所ですが、ユダヤ人が90%を占めていましたが、実は他にもドイツに反抗したポーランドの政治犯とされた人々や、ジプシー、障害者、同性愛者などと言った社会的マイノリティに立たされていた人も収容されていました。
しかし彼らが皆ここに収容されていたわけではありません。
連れてこられた人間のうち70-80%もの人々が収容されずにガス室へ連れて行かれてガスで殺されてしまいました。収容されるために連れてこられ、収容もされずに殺されていったのです。
例えば子供は14歳以下であると収容する価値なしとして母親と一緒にガス室行きになったと言います。そしてガス室で殺された後の死体は河原や野原に捨てられ、正確な犠牲者の数はわからなくなっています。


ガス室ができたのもビルケナウができたのと同様の理由で、人数が増えすぎて収容しきれなくなったからだそうです。
彼らが連れてこられて収容するしないを判断するのは医者の役目でした。連れてこられて並ばされ、医者が一人一人判断してくのです。
一つの建物の中に入って展示を紹介してもらいます。
様々な展示があり順路に沿って案内をしてくれます。

こういった当時の様子が写っている写真がいくつかありました。
中にはかなり凄惨なシーンを写すものもありました。
当然、当時の収容所は写真撮影などできるような状況ではなく、なぜこれらの写真が残っているかというと、監督役であったドイツ人が個人的に規則違反をして撮っていたものだそうです。それを撤退するときに慌てて出たためか収容所内に忘れてこられたものが残って当時の貴重な記録として保管されているのだとか。
そのドイツ人たちはどんな気持ちでこの写真を撮っていたのだろうか。
大戦に負けて貧しかったドイツの支配下において、一部のユダヤ人は商人として稼いでいたため裕福だったと言います。それをみて「ドイツ人が貧しいのにユダヤ人が裕福なのはおかしい」と銀行講座を凍結されて、財産を没収され、挙げ句の果てに収容所に連行されてきます。

当時連行されていた彼らは、連行でも収容でもなく「移住」といわれいたと言います。
彼らはほとんどの財産を没収されてしまった中で、新しい移住先へ、最後の自分の財産を大事にカバンに詰め込んでやってきます。取られないようにと、自分の名前を大きく書いてあるものが少なくありません。
しかし、「移住」の後にこの自分のカバンを自分自身で開けれた人はただ一人としていませんでした。
彼らが「移住」を本当に信じていたかはわかりません。

ただ実際にカップや服などを大量に持ってこられていたことから、そうだったのかもしれません。
生き残った一部の人がいうには、自分たちの子供が不安にならないようにわざと持ってきたという言葉もあるそうです。
髪の毛は材料として使えるので、ガス室に送る前に、髪の毛すら取っていたようです。
それをビニール詰めにして売っていたのだとか。
残された大量の髪の毛の展示もありました。
またガス室での模型なども展示してありました。
ガス室へ連れて行き、シャワーだといってパニックにならないように服を脱がせて、部屋に連れて行き、密封し、上からガスを捲く。ただ淡々と模型が示していた。
これだけにとどまらず、かなり多くの展示がありました。
ここには書ききれないくらいの事実とその残滓。
ただその中に一枚もヒトラーの写真はありません。
「少なくともヨーロッパはこの事実をヒトラーのせいには全くしていない。時代が絡み合った複雑な問題であり、これがなぜ起こり、今後どのようにこの事実から学ぶべきなのかをヨーロッパの学校では考えている」という中谷さんの言葉が残ります。
ヨーロッパの学生が教育の場として多く訪れるそうです。
そしてその後帰って学校で、何が原因なのか、どうすればよかったのか、どうすれば良いのか。といったことを皆で意見を言いディスカッションするそうです。多様な民族・文化の共生するヨーロッパのこれからのために。
ヒトラーという政治家は選挙を経て権力を握っています。なんと言おうと民主主義が選んだ代表がこれらを始めたのです。つまり当時の社会のストレスが溜まりに溜まってヒトラーを選び、ユダヤ人を収容させるという結果に至ったと言います。
外へ戻ります。
収容所の至る所に有刺鉄線が張り巡らされています。建物一つ一つを囲うかのように。

この先に行くと問答無用で銃で撃たれてしまうのだとか。
どれだけの収容されていた人々がこの光景から外を眺めていたのだろう。

ビルケナウ側では逃げる前に爆破していってしまったそうなのですが、第一収容所ではガス室が残っています。何もない空間。空っぽ。
天井にある穴からガスを撒いていたみたいです。殺すために銃を使うと弾薬がもったいないからこうなったそうです。害虫駆除用のガスで大量の人々がここで、殺されていた。

一時間半ほどでバスに乗り第二収容所ビルケナウに移動してガイドは続きます。

ビルケナウではほとんどが木造の建物でした。
人数うが溢れかえってしまうのでとにかく早く、多くの収容棟を造りたかったのだとか。
『アンネの日記』で有名なアンネフランクもこの第二収容所に収容されていました。しかし彼女はやがて別の収容所に移されそこで死んでしまうのですが、彼女の父親が彼女の日記を家で見つけてされがアンネの日記として世界に広まったのです。
中にはベッドのレプリカがありました。
部屋の中には簡素な木製のベッドだけがぎっしりと詰まっていました。
この一つ一つに5-6人で寝ていたそうです。

ところでなぜレプリカなのか。
この国は本当に寒いです。真冬にろくな防寒具もなくひたすら働かされ、凍死してしますので、収容されていた人々がみづから暖をとるために燃やしたそうです。同様の理由で木製の建物自体もかなりなくなっていて、広大な敷地と殺風景な景色だけが広がっていました。
端にはトイレ専用の棟があります。

ただ穴が開いただけの簡素なトイレです。しかもトイレは一人1日2回と決められていたそうです。
ここで奇跡的に生まれた赤ちゃんの話を聞きました。
当然本来は子供を産める環境があったはずもなく、悩んだ母親がこの穴の中に産み落として奇跡的に生き延び、今ではおばあちゃんのような歳になっている方が何人かいらっしゃるのだと。
この広大な土地がビルケナウです。第一収容所では内部の展示を案内してもらうのが重でしたが、こちらでは屋外を歩きながら案内してもらいます。

この線路がヨーロッパ中に通っており、各地からユダヤ人やマイノリティの人々を捕らえてきてここに収容するために連れてきた列車の跡です。まさに強制収容所を代表する遺産。

列車が現存しているものもありました。これに多くの人をぎゅうぎゅうに積み込んでヨーロッパ中からここへ運んできたのだとか。
そしてここに到着してすぐに、先程言った医者による選別が始まります。
途中で死んでしまう人もいるような旅路の末に到着したと思ったら7割もの人々はそのままガス室へ連れて行かれてしますのです。
最後に案内してもらったのがビルケナウでのガス室の爆破跡

撤退寸前にドイツ軍が隠蔽のために爆破して言ったあとです。
しかし、完全には爆破できていない。
隠そうとして隠しきれなかった人間の醜さそのものに見えます
ここでツアーは解散。約3時間弱でしたが濃密すぎる時間でした。
あたりは15時すぎで既に暗くなり出します。
問いかけ
中谷さんのツアーは少し独特で、この遺産とここで起きた事実を伝え、そして私たちに問いかけをしてきます。これはなぜだったのか。何が問題でこうなってしまったのか。もちろん私たちに答えを求めるような類のものではありません。むしろ自分自身に向けての問いかけでもあったようにも見えます。
毎日毎日その問いかけを繰り返し考え抜いているのと考えると凄すぎます。
また、現在の日本やアジアに関係する問題も繋げて話してくれるので、いかに彼がこの過去の事実から未来への教訓を考えようとしているか、そしてそれを伝えようとしているかを垣間見れました。
その中でいくつか気になったものをまとめておきました。
この問題を考える上で避けては通れない大事な問いかけです。
ぜひ自分の頭の中で考えてみてください。正解なんてあるのかもわからない、でも自分の頭の中で考えることが大事です。
- なぜユダヤ人が犠牲となったのか?
反ユダヤ主義はこの数十年に起こったようなものではない。キリストを殺したのがユダヤ人というだけでは説明がつかないだろう。これを理解するためにはユダヤ教徒の5000年にもおよぶ歴史を考えなければならない。
- 当時文化水準の非常に高かったドイツという国がなぜこんなことをしたのか?
ドイツという国は文化的にも高水準にあったにもかかわらず、このような非人道的な事件を引き起こしている。何が彼の国をその行動へ追い込んだのか。また日本は同じ側で戦争を戦ったがどのように関わっているのか。
- 私たちはヘイトスピーチとホロコーストの間のどこにいるのか?
この収容所の発端は街角の「ユダヤ人出て行け!」という声だと言います。つまり日本でもたまにあるヘイトスピーチです。それが行き過ぎるとこのような大量虐殺に繋がってしまう。私たちのヘイトスピーチは後どれくらいでこのホロコーストまで発展してしまうのでしょうか。
アウシュビッツ関係の作品
中谷さんがツアー中にいくつかオススメしてくださったのものも紹介しておきます。
どれもかなり有名どころであり、 専門である人のススメなので間違いないかと。
アウシュビッツについて勉強したい人、行く前に少し知っておきたい人はぜひ試してみてください。
![]() | 杉原千畝: 情報に賭けた外交官 (新潮文庫) 白石 仁章 新潮社 2015-09-27 |
まとめ
たった3時間のツアーなのですが、出来事そのものの凄惨さと、中谷さんのガイドによる情報量の多さ、速度によって非常に濃密な時間となりました。
本当に正直な思いを言うと、観光していてここに訪れることは個人的にはオススメできません。僕には負が強すぎました。間違いなく気分良くはなりません。僕は見学中ちょっと気分が悪かったです。
(メモを取ることに集中することで意識を現実に引き止めていたと言うか…)
ただもし訪れるのであれば中谷さんのツアーガイドに参加することを強く推奨します。
かなり書いてしましましたが、これでも全然お話してくださったことの一部しか書けていません。(しかも個人的な考えはほとんど書いてない記事で)
考えさせてくるような問いに、間違いなく個人で行くよりも勉強になりますし、いい経験ができます。
僕は、もし一人で行ったら、展示などを見るしかなくなり
・ひたすら気分が悪くなる
・あんまり何も感じずに帰ってきてしまう
のどちらかになっていたと思います。
なので本当に貴重なお話をしていただいて中谷さんには感謝です。
これからもガイド頑張ってください!
それでは少し長くなりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました!